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言われてすぐに立てるはずも無く、俺はたっぷり三十秒は床に膝をついて下を向き、ようやく顔を上げ、青ジャージの鬼をねめつけた。

「小僧、どれだけ俺を睨んでもお前の勝ちにはならんぞ」

鬼は片手で縄跳びをひゅんひゅん回しながら鼻で笑った。

「うるさい」

腹に力が入らないため、たいへん情けない声がでた。

それでもなんとか目の前のラメ入り縄跳びを掴んで立ち上がり、縄を広げた。

「少年、しっかりしてくれ。君が負けたら」

「いい加減しつこいぞ。誰がお前みたいな理屈言いの鹿を食いたがるんだ。性格が悪くなる」

鹿にツッコミを入れたらほんの少しだけ余裕ができた。よし、やってやろうじゃないか。

「里中くん、ほどほどに頑張ってね」

浜松さんの微妙に頑張れそうにない応援も加わって、俺は縄を回して2、3回跳んだ。

「青ジャージ、始めよう」

鬼は縄が当たらない程度に俺から距離をとり、ジャージの上を脱ぎ捨てた。

鹿は鹿で浜松さんの檻のほうへてってっと歩いていった。

こいつ、ついてきた意味ないな。

「『せえの』で跳び始め、先に躓いたり縄を手放してしまったりしたら負けだ。一秒に二回は跳ぶこと。いいな?」

俺は無言で頷いた。

「いくぞ。……せえのっ」

俺と鬼は同時に縄を回し始めた。

ひとまず腹痛の波は去ったが、跳ぶたびにぎゅるぎゅると腸が悲鳴を上げる。

青ジャージがさっさと引っかかることを祈るばかりだ。

「小僧、どうした。顔面蒼白じゃないか」

「色白なんだよ」

なんとも幼稚な応答を返すと、鬼は口の端を歪めてくつくつと笑った。

鬼はそれ以降は無駄口を叩くこともなく、俺達はしばらく黙々と縄を回し続けた。

その間、浜松さんはというと、檻から手を出して近寄ってきた鹿を撫で回したり話しかけたりしていた。

「ねえねえ、どうして話せるの?」

「君は自分がどうして言葉を話せるのかと言われたらなんと答える?」

「わかんないね」

「同じように、私もわからない」

「理屈っぽい鹿さんだなあ」

浜松さんはどこまでも俺に無関心だ。一応君が下山できるかどうかがこの俺に掛かっているんですよ、と言ってやりたい。

……うっ、また腹痛の波が!!

一度軽く縄がつま先を掠ったが、なんとか引っかからずに済んだ。

「小僧、助け甲斐の無い姫様だな」

俺が腹部の激痛と格闘していると意地の悪い笑みを顔面に貼り付けた鬼が再び話しかけてきた。

「お前、あのお嬢ちゃんにホの字なんだろう」

何故わかった、と少々面食らったが、腹痛のせいで衝撃は薄れた。

「だったらどうした」

話しているほうが気も紛れるだろうと踏んで、俺は鬼に返事をしてやった。

浜松さんは鹿との会話に夢中のようなので、こちらの会話は聞こえていないだろう。

「最悪の結末を迎える前にさっさと降参したほうがいいんじゃないか?」

最悪の結論と言うのは言うまでも無く俺が下痢に屈して人としての尊厳を失うことだろうが、どれだけ痛かろうとそうなることはない。

俺には文明人としてのプライドがある。

「降参を促してくるということは、お前、既に体力が限界なのか?情けない奴め」

故にこんな安っぽい角が生えた鬼に屈するわけにはいかないのだ。

「ふん、言ってろ小僧」

鬼はまだまだ余裕といった様子で、軽快に縄を跳び続けた。

そこからまたしばらく俺達は無言で飛び続けた。

何度も何度も腹痛の波が押し寄せ、搔いている汗の大半は跳躍運動によるそれではなく冷や汗だ。

いかん、だんだん意識が朦朧としてきた。

しかしふと向かいの鬼を見ると、奴も奴で少し息が上がってきているようだった。

ここで諦めてなるものか。

俺は歯を食いしばり、ひたすらに縄を回し続けた。

もうどのくらい跳んだろうか。

腹は痛いのか痛くないのかも判然としないような有様だ。

ただただ気持ち悪い。

前髪から垂れてくる汗が目に入って視界は滲み、咽にはたっぷり乳酸が溜まっている。

浜松さんはまだ鹿となにやら話しているが、それも最早よく聞き取れない。

俺は三時間前に桃に揺られていた時のことを思い出した。

あの時も相当気持ち悪かったが、今の状況もまた壮絶だ。

しかし跳ぶのをやめてなるものか。

なんとしてもこの勝負に勝ち、俺は浜松さんと下山して、元の世界に帰る。

そしてあわよくばお近づきになり、徐々に親睦を深めもう一度告白する。

あれ?そういう目的だったっけか。

というかなんだ。

結局、鹿の言うとおり、俺は浜松さんに未練たらたらだったのか。

いやまあ、わかりきっていたことだけど。

何がどうなろうと、浜松さんのことを好きでいるのをやめる自信がない。

たとえ彼女が遠い星からやってきた悪い宇宙人で地球征服を狙う悪党だったとしても、俺は彼女を好きでいるのをやめないだろう。

むしろ、俺は喜んで地球征服を手伝って差し上げるくらいの気構えがある。

彼女のためなら鬼にも釈迦にもなろう。

そうとも。

彼女と歩む薔薇色の人生のためにも、俺はここで負けるわけにはいかない。

俺が決意を固めた瞬間であった。

からん。

プラスチックが床に落ちた音がした。

見ると俺の手に握られたプラスチック製の持ち手が、縄から外れていた。

「小僧、俺の、勝ち、だな」

鬼はぜいぜい言いながら縄を放った。

「……」

言葉も発せずに茫然自失で突っ立っていると、手首を掴まれた。

そしてそのまま俺は、その手に強く引っ張られた。

「走ろう!」

「浜松さん!?」

浜松さんは俺の手を力強く引っ張って走り出した。

わけのわからないまま、彼女に引っ張られるまま俺は走った。

俺達は鬼の事務所を飛び出し、鬼がなにごとか喚くことなど意にも介さず全力疾走し、そのまま廊下を走り抜けて、俺と鹿が入ってきたガラス戸を、浜松さんが勢いよく開いた。

 

 

 

途端、視界に光が満ち、気がつくと俺と浜松さんは、ベンチに座っていた。

俺はすぐには言葉が出なかった。

浜松さんはきょろきょろと当たりを見回し、やがて叫んだ。

「生還ー!!!」

そこは俺が以前、おつかいの帰りに浜松さんに偶然出会い、なにを思ったか告白して見事に玉砕した公園だった。

「よかったねえ里中くん。あ、向こうにトイレあるよ」

 

 

 

後から聞いた話である。

俺が死に物狂いで縄跳びをしていた際、浜松さんは鬼が脱ぎ捨てたジャージのポケットに、浜松さんの檻の鍵が入っていることを思い出し、隣にいた鹿にジャージを咥えてもってくるよう頼んだらしい。

鬼もそれなりに必死に縄を回していたため、ジャージの回収はあっさり成功し、割と早い段階で彼女は檻からの脱出に成功していたとのことだ。

ならどうしてもっと早く逃げなかったのか、と俺が当然の疑問をぶつけると浜松さんはにっこり笑って

「里中くん的には、勝って帰る方がすっきりするんじゃないかと思って」

と答えた。

そういうわけで、俺の桃太郎体験記はイマイチすっきりしない幕引きを迎えたわけである。

おじいさんやおばあさんの村がその後どうなったのか、気になるところではあるが、今となっては知る由もない。

もしかしたらあの鹿が本当にえいやっとやっつけたりしたのかもしれないし、今も鬼は健在でお歳寄りを苦しめているかもしれない。

ひょっとするとまた俺達の世界の誰かが桃に詰め込まれてあの世界へ流されているかもしれない。

 

 

しかし一週間も経つと、だんだんあれは夢だったんじゃないかという気もしてきたりする。

そんなわけないんだけれども。

俺が着て帰ってきたおじいさんの衣服が何よりの証拠である。

 

 

俺と浜松さんの仲については、それからどうなったか語る気は無い。

それぞれの想像に任せる。

 

まあ、とりあえず、締めの言葉を言っておこう。

 

 

めでたしめでたし。

 

 

 

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